娘は、H20年1月にとても大きな病気を持って生まれてきました。
娘は、これまでに、9回の入院、3回の手術、長い長い在宅酸素生活を経て、現在、小学4年生。
3度の手術で普通の生活ができるようになった娘ですが、娘が受けた手術はまだまだ歴史が浅いため、娘の病気の分野において、歴史を作っていかなければいけません。
話はさかのぼりますが、娘が生まれた時の心境を改めてここに書き留めます。
これから同じような心境になる方への少しでも励みになればと思います。
なお、具体的な病名は、「娘の最大の個人情報」になるので、娘がもっと成長し、娘がはっきりと自分の意志を持つまでは、公表することは誠に勝手ながら避けたいと考えています。すみません。重い内部疾患だとご理解ください。
ただ、読む人が読めば、だいたい娘がどういう病気でどんな手術をしたのか、きっと気が付かれると思いますが。
長くなりますので、興味のない方は、スルーしてくださいね。
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エコー【超音波検査】では分からなかった
私は、娘を妊娠中、二つの病院にかかりました。一つ目は、主人の転勤先の鹿児島にあるとても有名な病院。二つ目は、私の実家近くの福岡のこれまたとても人気のある病院です。
健診の度に、エコー【超音波検査】をするわけですが、どちらの病院でも毎回「順調ですね!」と言われていました。指摘されたことと言えば、後期に入ってからの体重の増え方がイマイチだったことだけ。なのでこの時は先生も私も何も心配していませんでした。
メンタル虚弱体質だった私にとって、自分が結婚できただけで奇跡。さらに妊娠。
私は幸せの絶頂にいました。
こどもを授かった母親は、誰しも「元気に生まれてきてくれるか心配」と思うと思いますが、この時の私も、「心配だけどきっと大丈夫」と気楽に構えてました。
大変な未来が待ち受けているとも知らずに。
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生まれた瞬間
2008年1月、第一子となる娘が生まれました。待望の女の子です。
私が自宅で陣痛を我慢し過ぎたこともあり、病院到着後わずか15分での超スピード出産でした。
出産を終えた直後、私は、自分が赤ちゃんを産めたことに対する驚きと、生命の神秘を感じながら、ほど良い達成感と幸せに包まれていました。
そう、ほんのわずかな時間だけ。
娘の異変
分娩台で後処置を受けている私の足元で、きれいにしてもらっている娘。
すぐに私のところに連れて来て抱っこをさせてもらえると思っていたのに、一向にその気配なし。それどころか、助産師さんと先生の様子がおかしいこと、何か焦っていることに気が付きました。
娘にどんなに酸素をあててもサチレーションが上がらなかったのです。
衝撃の言葉
分娩後、娘を抱っこするどころか、近くで一目も見れぬまま、私は、分娩室を出ることになりました。でもこの時の私はまだ、「次の妊婦さんが待っているし、人気の病院だから、こんなこともあるのだろう」くらいにしか考えていませんでした。
私は、病室ですぐに連れて来てくれるだろうと、1人で待っていました。だって生まれてきてくれた我が子にまだ会ってないんですから。
すると、術着を着たままの暗い表情の先生が、1人で部屋へ入って来ました。娘は???
娘の深刻な事態を初めて悟った瞬間です。
そして、追い打ちをかけるように、その先生は私に向かってこう言いました。
「残念ですが」
と。
私は、意味がわかりませんでした。
頭の中に「残念ですが」が鳴り響く中、娘に「大きな病気の可能性があること」を伝えられました。
もうすでに、救急車が娘を迎えにこちらに向かっているとのこと。
え???
私は、まだ生まれた娘に会ってないし、一回も抱っこしてない。
すぐに、救急車と共に、娘の病気に対応できる専門の先生が到着。
その先生が、「出発前に、抱っこされますか?」と聞いてくれました。「はい。」
ここで初めて、娘とご対面。そして抱っこ。
なのに、娘を抱っこした瞬間、一時的な貧血が起こり、娘を抱っこできたのは5秒くらい。
それからすぐに娘は運ばれていきました。
残された手紙
娘を迎えに来てくれたNICUの先生が置いていった手紙とぽつーんと1人になった私。
その手紙には、こう書かれていました。
「とてもきれいな赤ちゃんですね。大切にお預かりします。」と。
「先天性疾患」「先天性奇形」「詳しい検査が必要」の文字。
あとは、今まで聞いたこともない病名がいくつか「疑い」として書かれていました。
「先天性」や「奇形」という言葉が、胸に突き刺さったのと同時に、「きれいな赤ちゃん」だと言ってもらえたことで、こんな状況でも少し救われたような気持ちになったことを覚えています。
出生当日の娘。NICUにて↓
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【2015.6.26 追記】